『美味しい革命』

 

『美味しい革命』 アリス・ウォーター

 

 

第7章・・倦怠とインスピレーション

1977年アリスは初めて正式な主任シェフになった。ジェレマイアがいなくなったことと、
自分一人で主任シェフをやるときめたことで、新たに意欲が湧いてきた。
アリスにはアイデアがいっぱいあった。スー・シェフのピエールはプロとして最高の技術をもっていた。
アリスの考えるものを何度も調理してくれた。
ジェリー・パドリックはアマドール郡に160エーカーの土地を買い、1エーカーを畑にした温暖地向きの野菜をアリスと一緒に育てた。
栽培方法は完全オーガニック。
摘み立てをキッチンに持ってきて、まだ生きているような野菜でサラダをつくる、
これはただの美味しいサラダではなく素晴らしいサラダだ。生きているサラダだ。
アリスは9月末までシェパニーズを休みにした。


第8章・・創造と破壊
1979年 アリスはシェパニーズに戻った。フランスでの偉大なレストランでの食事は彼女を大いに刺激した。
彼女はいくつかの秀作をシェパニーズで再現する決意でいた。
シェパニーズは再び素晴らしいレストラン・レビューに書かれた。
シェパニーズの歓喜と湯鬱の間で揺れ動く精神状態は、もはや消滅しそうもない特徴となっていた。評判が上がり、
それに伴い、収入もあがったが、ときどきアリスもスタッフもその栄華の永続の為に尽くすのが嫌になるらしい。
アリスはシェパニーズの評判と自分の世界における評価には満足していた。
時々カメラにむかってにっこり微笑みを浮かべるが、内心はどこかに行ってしまえたらと思うのだった。

シェパニーズは外の世界には落ち着いて自信に満ちたイメージを維持していたが、一歩裏に回れば絶えず問題が存在した。
アリスにとって、これまでは目が回るような、途絶えることのない、時には矛盾しているような体験の連続だった。
何日も何週間も何年もどんどん過ぎていった。具体的にこれという実体はなかった。それがようやく何か形になったようだった。
アリスとシェパニーズの世界を表現するような本を出版すべきではないかとくらくらする興奮の思いで認識しはじめた。
晴天の霹靂の様な惨事が起こった。アリスがキッチンを受け持った日の夜、夜中にでんわがなった。火事でした。
火事の原因はまだ火の元が残っている木炭を箱に戻したものでした。
火事のあとはひどい状況で、1階はほとんど燃えました。大黒柱までもう少しのところでした。
この火事でアリスはレストランのドアを開けて外の世界を見るようになった。

第9章・・火による洗礼

火事の翌日シェパニーズの建物の外郭は黒焦げで、水がまだ滴り落ちていた。あたりは焼けた匂いが充満していた。
集まった人々はこの光景を目の当たりにして悲しみに暮れたが、アリスは苦しんでいる暇などなかった。
やることが山ほどあった。
アリスは出来るだけ早くレストランを再オープンしたかった。不思議なことに、アリスはこの破壊によってえねるぎーが沸き上がった。
これまでキッチンとダイニングルームの間の壁は仕切られ、小さなドアがひとつ付いていたが今はドアも壁もなくなっていた。
アリスはその方が好きだった、調理するところとサーブするところを一つの部屋にしたかった。

火事で壁がなくなったとき、アリスは「そのままにしましょう」といった。
再建工事はすぐに始められた。また、援助のてはあちこちから差し伸べられた。シェパニーズの友人仲間、スタッフ、バークレーの一般市民からも、
焼け跡の掃除や、工事の人々へのランチ、あれやこれや手伝いが入った。
1982年3月、カフェが営業再開した。火事から2週間後だった。
4月には階下のレストランもディナーをはじめることができた。
シェパニーズはアリスの人生になり、家族となり、アイデンティティとなったが、アリスは寂しかった。アリスは年を取ったらどうするかを考え出した。
30代後半、子供をつくるなら今しかないとわかっていた。
レストランの10周年記念、火事、これで一つの章が終わったと感じていた。アリスはまだ子供をつくっていいと思う男性に出会ってなかった。


彼女のもっとも最近の恋人は15歳年下のハンサムでセクシーで頭の良い、やる気のあるシェパニーズの料理人だった。
アリスはシェパニーズの外でボーイフレンドを見つけることはなかった。そのくらい彼女の行動は限定されていた。
その春、友人が会わせたい男性がいるとアリスに言った。
その男性はスティーブンといった。彼はアーティストで、アリスと同様小柄で、エレガントでスタイリッシュで情熱的でした。
彼の服装と言葉遣いからは知的な思考が流れていた。
アリスは38歳、スティーブンは27歳だった。二人は一緒に住み始めた。


第10章・・ファニーの世界

アリスの2分された注意力はレストランと彼女の個人生活に影響を与え始めていた。
スティーブンはアリスから十分心配りがないと感じていた。
2人の間に不協和音が流れ始めていた。
シェパニーズではダイニングルームでのサービスが問題になっていた。
「即時解雇につながる5項目」が言い渡された。

1、レストラン、または他のスタッフからの盗み
2、勤務中酔っぱらう事
3、店内で喧嘩すること
4、店内で食べ物を投げること
5、開店時間中にマリファナを吸う事


カフェの開店、火事の報道「シェパニーズ・メニューブック」の刊行で現金収入はグッと上がっていたが、それでも収益となると全く上がっていなかった。
スタッフに払うお金が十分にあり、最高にいい食材を買う事が出来、出来るだけ美味しい料理をテーブルに出すことが出来たら
アリスは満足で、収益などどうでもよかった。
カフェの経営には問題が色々あった。スタッフの士気が低く、予約についての混乱があり、従業員の盗みが多く、メニューにも文句があり、
階下のキッチンの使用にも問題があった。カフェは午前中に階下のキッチンを使って、調理準備をすることになっていたが、
いつも遅くなりダイニングの時間まで食い込んだ。
スタッフがワインやデザートやその他、釘でとめていないものは何でも失敬することがなくなったわけでもないが、パット、ウォータース(アリスの父)の
引き締めのおかげでシェパニーズはようやく収益をあげることが出来るようになった。
1984年までにシェパニーズはアリスが望んでいたレベル、いや、それ以上のレベルに到達していた。
そしてファニーはレストランの中で育った。そこにいる誰もが彼女の友人だった。
みんな、よいベビーシッターをやってくれた。
それにファニーには、ボブ・キャローとスーがいた。彼らは彼女を自然の中に連れて行ってくれたりした。


第11章・・アリス、空を飛ぶ

1980年代なかばには、シェパニーズにも、アリスにも成人した落ち着きがみられるようになった。
アリスの父はシェパニーズの管理を全面的にコンピューター化することを提案した。ハイテクな事が大嫌いなアリスはそれを聞いてぞっとしたが、折れることにした。
シェパニーズは世界中に使徒を送り出している。卒業生の中には冒険の世界に飛び立ち、大規模なレストランの世界に入っていく人もいる。
実家のシェパニーズに戻ってくる人も多い、シェパニーズはそれを受け入れる。
たとえ出る時いざこざがあったとしても。
彼らは他から価値ある経験とアイデアを持ち帰る。
シェパニーズで働くには空気が読めなければならない、アリスが上手く言葉で表現しなくても、どういうことか直感的に理解する能力。
空気とは倫理観、最善をつくす努力、スタイル、味覚、臭覚、知性、勘、対人マナー。
誰も、彼もがアリスを好んだわけではない。
アリスは「ニューアメリカンクッキングの母」として知られるようになった。

アリスはメディアに自分をどう見せるかは十分マスターした様だった。
だが、シェパニーズに関してはマスターの域にたっしていなかった。一晩に平均お客様20人分の食事が消えていった。
1984年1年で売り上げは270万ドルに達していた。2パーセント利益が出た。
アリスは徐々に店の事から手を引いていった。
たまには店の上下に動きまわって細かく忠告し、厳しいコメントをしたりすることもあったが、そのほかはファニーの母親役に努めた。スティーブンとの時間をもち、その後のさらに大きいプロジェクトの前兆となるような企画に専念した。

アリスの父は本当のビジネスとして経営していける人間を探し当てた。2%の利益では心細かったし、ちゃんとしたマネージャーがいれば、アリスがもっとほかのことに時間を使う事ができるとおもった。
取締役会は半年1万5千ドルでリチャード、マッツェラを半年契約で雇った。
1985年アリスとスティーブンは結婚式を挙げた。

トスカーナでの3週間のファニー同伴の新婚旅行から帰ってくると、スティーブンは<シンガー&フォイ>の仕事に戻り、
アリスはシェパニーズで相変わらずの問題に取り組んだ。
レストランはあちこちでいいレビューをもらい、毎晩満員状態だし、アリスは新婚だし、1985年~1986年のアリスは
楽観的な気分にあふれていた。アリスはスティーブンを雇った。まずはコンサルタントとして、店のワインリストの見直しの為、
次に店のワイン購入の仕事を任せた。(その頃まだ、店のワインは1ヶ月に500本消えていた)彼女はシェパニーズの所有権をスティーブンとの共同名義にした。
アリスはノースポイント出版を説得して、店の15周年を記念してマルセル・パニョルの伝記を特別出版してもらい、
その「まえがき」にパニョルの思想にいかに支えられてきたかを明晰に表現した。

仕事と生活が一体となる理想の場所、毎日の生活には、午後のアニゼットを楽しんだり、健康のためにペタンクをして遊んだりするゆとりもあり、
一緒に楽しむ食事は身体だけでなく、心も豊かにしてくれる。食べ物は地元の人々により、地元で栽培され、収穫され、
収集されて、共に持続可能な生き方をしながら、そして地球によって支えられる。

彼女のこの短いエッセイの最後に、パニョルとシェパニーズのスピリットを代表するようなレシピをのせた。


第12章・・死と生
1986年アメリカ合衆国病理管理センターがエイズという病名を付けてから4年もたっていない頃、エイズはすでに全国のゲイコミニティーを残酷な勢いで引き裂いていった。
そして、トム・グァンジーもかかっていた。
アリスにとって、ファニーの誕生は彼女を未来へ目覚めさせてくれたが、やがてくるトムの死は人間の脆さについて目覚めさせてくれた。
アリスは自分の求める野菜を自分の都合に合わせて栽培してくれるファーマーを探していた。アリスの父はシェパニーズの周辺100マイル
以内のファーマー100人ほどをあたり、4人に絞り込んだ。
最終当選者ボブ・カナードの農園を誰も想像することはできなかった。
彼の農産物は雑草に埋まっていた。たぶんアリスはこれまで食べた中で1番美味しいカブであり、ラディッシュであり、にんじんだった。
「野菜も果物もみんなハッピーだからね」と彼は叫ぶ。時には歌にして。
ボブは200種類もの野菜や果物を栽培している。
「ボブ・カナードを見つけた時は、ぞくぞくしたわ」とアリスは言う。アリスは素晴らしい果物や野菜を育てている人に会うといつも興奮する。

遺伝子組み換えコーンから高果糖コーンシロップの生産は、砂糖生産よりずっと安価に出来るようになった。このシロップは菓子類だけでなく、
驚くべき広範囲の食品に添加されるようになった。消費者は糖分を取っているとは知らずに、これが入っている食品を好むようになり、それが病みつきとなる。
レストランも追随し、ファーストフード会社も安価で一人前のサイズを増やすことができた。アメリカ人はものすごい勢いで肥満になってきていた。
アリスは言う「食べるという事は“ファースト”(速く)あるべきではない、そして安価であるべきではない」
アリスは、これからどういう使命をもって生きていくかははっきりわかった。
シェパニーズの誕生、成長、開花を経て、行きついたところはエコロジー、農業、社会などの面からの環境存続維持の哲学の実施、
これらひとつひとつの体験の総合だった。


第13章・・持続可能な生き方

アリスが(エンド・アンド・コンフォート)で学んだのは、いい人々を集めていい仕事を望めば、年がら年中批判しているより、
ずっといい結果が出せるということだった。
もっと大きなスケールの問題と取り組み、それでいてシェパニーズで日々起こる種々の問題の大事な部分はやはり
彼女が決めなければならないし、そしてどんどん難しくなっている結婚生活を維持し、ファニーを育て、講演などで各地を回り、
アリスはだんだん自分の正直な気持ちがわからなくなっていた。彼女は偉大な事を成し遂げた人によくみられる現象、
功成り名と遂げた人物というイメージから落ちまいと懸命な努力をするあまり、無意識のうちに、自分に意識を向け、問いかけ、
静かに向き合って新たなエネルギーを得るプロセスを犠牲にしていた。
アリスはその頃、靄の中で生きているようだった。自分自身の人生の舵を失っていた。
彼女はどうしてかわからないが、1990年にドン床から這い上がることに成功した。
典型的なアリスの姿だ。賞賛など無視、絶対に死ぬとは言わない、そして危機には必ずチャンスがある。


第14章・・”スター”の力

1991年8月シェパニーズの20回目のパーティーはレストランがあるシャタック通りの一画で、
通りの両側の歩道全部をつかった巨大なファーマーズマーケットという形で、しかも出入りしているファーマーや納入業者の人々に感謝の意を表して行われた。
初め、30か40くらいの屋台で2、3000人くらい集まると思っていたが、14000人も集まった。
その晩、レストランでは通常通りのディナーがサーブされたが、大きな違いが2つあった。
ひとつは料理はもっとプロらしく、落ち着いた様子で用意された。
もう一つは料金が開店の晩のディナー13ドルから5倍の65ドルになっていた。
アリスは色々な場で話すことを頼まれたし、1992年には食の世界のオスカー賞と言われるジェームス・ビアード基金賞が、ベストシェフ賞、
シェパニーズにベストレストラン賞が贈られた。

アリスが料理関連の催し物に出席すると人だかりができた。
アリスは演説や撮影についての手ほどきを受けた。自分の時間はますますなくなったが、なおも引き受け続けた。
それでも自分はレストランの人間だという考えにこだわっていたので料理をしたり、味見をしたり、まとめたり、
不平不満を聞いたり、スタッフのいざこざをなだめたりする役を捨ててはいなかった。

アリスの理想的な家族生活についての実現はなかなか難しかったが、シェパニーズの理想については
ボブ・キャローと新しい本の企画をすることで再認識することになり心が癒された。それはファニーの目から見たレストランのお話だった。
悪化する結婚生活を前にして、アリスは自分が人気者でいられるとわかっている場所に逃避した。公の役割を果たすことが大いなる慰めとなった。
アリスは再びレストランで過ごす日々が増えた。
スティーブンはファニーのよき父親として一家だんらんの中に留まっていたが、彼とアリスはすでに同じ世界に住んではいなかった。

第15章・・バークレーから”もっと広い世界”へ
食べられる校庭、これは非常にモンテッソーリ的な教育法であり、アリスの信念そのものだった。アリスは“食べられる校庭”が世界中に広まるのを見目に見ていた。
その間も、シェパニーズはそれなりになんとかやっていた。いつものように従業員からの不満から嵐が吹きまくったり、相変わらずそれほど儲かってはなかったが、
美味しい料理を来る日も来る日も提供していた。アリスも遠い地平線から目を離し、現実に戻らなければいけないこともしばしばだった。
アリスは1996年にはまた、「シェパニーズのベジタブル」を刊行した。これはただのレシピ集ではなく、優れた百貨店のようなクックブックだった。
一つ一つの野菜について、紹介エッセイがあり、その基本的な特徴、違った調理法によって現れる特質、それに旬のことや歴史にも触れている。
スティーブンとアリスは離婚に同意したが、1997年の夏まで、同じ屋根の下で暮らした。ファニーが14歳になるまで。
彼らはファニーに打ち明けるのを出来る限り延ばした。
アリスはレストランから離れて自分のエネルギーを他に向けることが出来るようになっていました。

彼女は“食”を料理の領域から外して、もっと社会的、文化的な領域にもっていきたいと感じていた。
その結果レストランの外でどんなことをすべきかについて、もっと戦略的に取り組むようになりました。
そして、これまでは全く興味がなかったfoodネットワークに積極的に出演することを意味した。もっと広い聴衆、違う聴衆を獲得するために。
その時期に味わった苦悩のあと、アリスは徐々にだが、将来の自分の姿がみえるようになり、高い山を一歩一歩のぼりはじめた。
“食べられる校庭づくり”は絶大な成功を収めた。アリスは“シェパニーズ財団”を創設し、財源の確保と同種のベンチャーへの支援が出来るようにした。
マーティン・ルーサー・キング中学校では校庭のアスファルトは剥がされ、菜園がつくられた。
アリスがバークレー学区当局ホルモンを与えられた牛の肉や遺伝子組み換え食品の購入が禁止された。
「スローフード」運動は、いずれ、アリスと出会う方向を歩んできた。交差するのは時間の問題だった。スローフード運動はアリスの使命とぴったり合っていた。


第16章・・イェール大学プロジェクト

毎年9月にイェール大学では、学長がキャンパスにある広大な学長用公邸の広大なバックヤードで新入生とその親たちを歓迎する。
2001年9月ファニーシンガーとアリスは1300人の新入生が食事する“コモンズ”という学生食堂を見てきたところだった。
そこにこもった匂いそれがアリスをムカムカさせた。
アリスは、学長リチャードにイェール大学での食事も学問の質と同じレベルでない理由はないと思うと言った。
アリスはイェール大学でのfoodシステム改善策について矢継ぎ早にアイデアを浴びせた。
学生に食べさせる方法を革命的に変えるべきだと言った。
地元で栽培された旬で新鮮なオーガニックの食材について、またそれをキャンパスで栽培し、
農園芸の仕事と大学のカリキュラムとを結びつけることも。

イェール大学の広大なキャンパスには使われていな広大な土地があるでしょう。それは“食べられる校庭づくり”
の話やヨーロッパではやっている、スローフード・インターナショナルが始めた類似のプログラムについても話した。
アリスは、「それでは草で飼育された牛の肉でハンバーグをつくり、戸外用ピッツァオーブンでピッツァを焼いた。
食べられる校庭づくりについての情報リクエストや見学希望が、米国中の発足したばかりの学校菜園から毎日のように届けられた。
何百という見学者は非常に感動して帰っていった。
アリスたちはそのために25万ドルの資金を集めた。

エピローグ 全世界へのミッション

シェパニーズの光の色から、バターの滑らかさ、倫理観、家族感覚のレストランの在り方まで、
アリスの高い基準が彼女がいない時も維持されていた。いればもっと強力にひょうげんされる。
7週間の内アリスがバークレーにいたのはたったの6日だった
世界生産者会議と呼ばれる会議に世界中から集まる5千人以上のファーマーたちに講演してくれるようチャールズ皇太子にお願いした。
何十万エーカーもの農地を所有する英国一のファーマーであるチャールズ皇太子が素晴らしいお手本を見せようとしている農業革命は、
アリスの理想と同じ線上にあり、それはオリンピック規模のものであった。


「食べられる校庭づくり」は”学校給食を見直す”もっと大掛かりな運動になっていた。
アリスの行動範囲は大きく変化し、量的な変化は質的な変化にもなった。
それにもかかわらず、アリスの昔のもの、身近なものにしっかりと根をおろし、シャタック通りの昔ながらの
古いレストランとカフェに身をささげる。
時には混乱状態のこともあるが、毎日100人ほどのお客様に歓待の雰囲気の中で、彼らが今までに食べたことのないような
美味しい食事を提供する。
イェール大学を卒業した後はケンブリッジ大学を卒業した後はケンブリッジ大学で美術史を学んでいるファニーの良き母役を務め、また
年をとりつつある父親、病気がちな母親、姉妹や新旧の友人などに尽くし、彼女の菜園や、すりこぎ鉢や、食卓でのおしゃべりを、
何より愛しているのだ。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket

この記事へのコメントはこちら

メールアドレスは公開されませんのでご安心ください。
また、* が付いている欄は必須項目となりますので、必ずご記入をお願いします。

内容に問題なければ、下記の「コメント送信」ボタンを押してください。